日露和親条約(日露平和条約)

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1855年の日露平和条約によって樺太は日本とロシアの共有領土になった。総体に、それは領土を使うことについて約束で、隣の両国の間での平和条約になった。

そのうち、ロシア帝国が樺太の植民地化を活発に行われていて、あちらにますますロシア人の人が引っ越していた。そして、日本人が自分のものとしている島の南部分にも炭田を開発し始めていた。

それで、平和条約が形式的になりそうであった。なぜかというと日本の経済活動は漁業のためだけ樺太の南先を季節的に使っているわけで、そして大規模に日本人を引越しさせていなかった。なぜかというとそのときもっと南にある北海道すらまだ最後まで開発されていなかったからである。

樺太でロシアがあることは広まっていくので、そういうことは心配させて、平和条約を再調整するために、1862年7月日本に竹之内さんをはじめとする代表者がサンクトペテルブルクに送られていた。そして、竹之内さんが樺太を50度線で割って、または少なくともその南先が長い期限に借りることを提供した。でも、ロシアの政権がその前日本に南千島列島、そして択捉島も全部完全に譲ったので、樺太全体を開発することを優先にして、1855年の平和条約があっても、樺太に対してなんの譲るつもりは全くなかった。