樺太・千島交換条約 (1875年のサンクトペテルブルク平和条約)

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1875年のサンクトペテルブルク平和条約という平和条約を締結する前の交渉は複雑で、長時間がかかっていた。両側も長期間自分の苦情に対してなかなか決定することができなかった。例えば、最初日本人は樺太を割るところは北の50緯度にするとか、それから48位度、または47位度にすると求めた。ロシアがそういう条件によって正式的島を割るようにと期待して、そしてそれに基づいて平和条約を締結したいと思った。ロシアは日本の代表者に自分から次のバージョンを提供した。樺太全体がロシアのものと認めていただいて、その代わりに真中の一連の島々を日本に渡して、それと同時に三つの北の島に対してロシアは自分のコントロールを保ちたいと思った。なぜかというと阿頼度山と占守島と幌筵島というその三つの島々なしでロシアの漁船団が自由に太平洋に入ることができなくなるからである。つまり、その条件に基づいて平和条約を締結したいと思った。しかし、結局陸路を通って境なしで、島々に対して各国は分与した形で所有することになった。

全般的に、前の1855年の日露和親条約(日露平和条約)より、1875年のサンクトペテルブルク平和条約は日本にとってはとても利益のある条件によって締結した平和条約になった。実際はそれは初めて大きくない活気的に発達しているアジアの国がはるかにもっと大きいヨーロッパの国と匹敵状態で平和条約を締結したことになった。それに、1875年に日本は1200キロの島々の連鎖の持ち主になった。ロシアは実際に太平洋に入ることができなくなった。1875年の平和条約を締結した結果がそういうふうになった。