ポーツマス平和条約(1905年9月五日)

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1904〜1905年の日露戦争を終わらせる平和条約がアメリカのポーツマスという都市でロシア帝国と日本帝国の間で1905年9月五日に締結された。戦争途中でロシアに対して成功を勝ち取ったにもかかわらず、そのため一生懸命すべての必要な力が緊張され尽くしたので、それは日本を困らせていた。その関連で、日本の幹部が平和条約を締結することが可能かどうかと調べてみた。平和条約を締結するために初めの試しは1904年7月に林氏というイギリスでの代表者がやった。そして、次回はまた林氏が旅順口区を降伏させたあと、エスカルドスタイン(Eckardstein) というドイツの外交官を通して平和条約を締結することに対して調べてみた。しかも、平和条約を締結するために正式的お願いがロシアの方から提供されるようにと日本の方から条件が出された。ロシアの政府がその提供を退けた。

第一次モロッコ事件が徐々に迫ってくるせいで、フランスがロシアから応援を受けたがったので、ロシアと日本との平和条約の締結の調整に参加したからである。1905年4月五日ロシアの政府の賛成を受けてから、フランスの代表者がパリにいる日本の本野氏という代表者に平和条約を締結するためにフランスの仲介を提供された。それと同時に、平和条約の締結できるロシアの条件についても日本のほうに伝えていただいた。それは平和条約からロシアが戦敗国として賠償金を払う、そしてロシアの領土を譲るという項目が日本の要望から削除されることである。4月13日本野氏にロシアの平和条約を締結できる条件に対して、それは受け取れないことだとフランスの代表者が通報された。アメリカの大統領ルーズベルト氏が日本に対して多大の財政の援助を与えていただいて、日本の立場を支えていただいたので、平和条約を締結するために日本はアメリカの仲介を頼んでいた。1905年4月18日アメリカにいる高平氏という日本の代表者が平和条約を締結するという提案の進出することについてルーズベルト氏を頼みた。1905年5月27〜28日の日本海海戦でロシアは完全に負けた理由で、そして、ロシアに革命的事件が展開していったので、ロシア帝国の政府はどうしても平和条約を締結することにした。

そして、日本の政府のお願いで、ルーズベルト氏が平和条約を締結しましょうという提案をロシアの皇帝に提供した時、皇帝がそれを受け取ったのである。